2011年8月24日水曜日

あきた歴史ロマン その2 後三年の役
県南の美郷町から仙南へ国道13号線を走ると、道の駅 雁の里が右手に見えてきますが、このあたりはかつての「後三年の役(えき)」の古戦場跡。いまは広大な田園地帯ですが、かつここで血なまぐさい合戦が繰り広げられたのです。かつて、と言っても1000年も前の話ですが。その割に「落ち武者」「亡者」の心霊スポットにはなっていませんが、平成なってから「平安の風わたる公園」として整備され、休日などは親子連れやカップルが訪れていますよ。ここにはブロンズで作られた四人の武将が、東北地方を描いた地図を囲むように立っています。藤原清衡、清原家衡、清原武衡、源義家の四人。前九年(1051年~1062年)の役で阿部の貞任、宗任を追いやった連合軍が、その後仲間割れをしてし まった闘いが後三年(1083年~1087年)。この戦いに勝利した清衡はやがて平泉へ移り、広大な奥羽を取り仕切る。義家は美郷町の納豆を手に太平洋側を南下し、水戸に納豆を置き忘れてしまった。そう、納豆は美郷町が発祥の地なんです。


さて、勝利者側の源義家の部下に、鎌倉権五郎景政
という若干16歳の血気盛んな若者がおりました。彼は
義家の元で大活躍をし、清原家衡、清原武衡軍を金沢
柵に追い詰めた。いまの八幡神社があるところですね、
高い山、横手まで見渡せるぐらいの山です。景政は
負けた家衡、武衡勢の、その屍を手厚く葬ってあげ、そこに
木を植えたそうで、それが金沢公園にある「景政巧妙塚」
なんです。



で、いつしか、権五郎景政の名前は様々に伝えられ、合戦からおよそ600年を経て、江戸歌舞伎の中でヒーローとして誕生する。それが「歌舞伎十八番の内 暫(しばらく)」。悪いやつらが善人を懲らしめている鎌倉鶴岡八幡宮に、「しばら~く!」と花道を登場する正義の味方、物凄い長い大太刀で悪人たちの首をバッサバッサと切り落とす!超荒唐無稽な物語。「暫」は芝居というよりも祝典劇のようなもので歌舞伎の大顔合わせの時に出される演目、筋を追ったら「なんじゃ?この話」と笑ってしまうものだけど、とにかく演じる俳優は舞台の上で大きく大きく、権五郎を演じます。
話は歌舞伎にそれましたが、歌舞伎十八番といえば市川團十郎、その縁の江戸桜ならぬ暫の主人公が横手にいた!これは成田屋さんを横手にお呼びして、見ていただいて、そして歌舞伎十八番を演じてもらわねばならないのでは?
そしてなんと、横手には團十郎さんに縁の深い人物がもう一人いたのですよ・・・・

★後三年の役について


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