2011年8月30日火曜日

8月30日 ブログ

市川団之丞という人

後三年の役の際に、合戦の柵城として築かれたのは数々あれど、現代ではそのほとんどは残っておらず、右写真の蔵光院(横手市沼館)のあたりに「沼の柵」と呼ばれた柵城があったと記録に残っている。清原家衡 、武衡 たちが籠っては避難し、最後には捕らわれ処刑された血なまぐさい合戦の末に、世界遺産となった平泉が建立、という人間の歴史、東北の歴史です。
さて、その沼の柵跡地から徒歩で10分~15分の距離にあるお寺、蔵伝寺には、「岡本新内創始者 市川団之丞之墓」と書かれたお墓があります。この方は、かの江戸歌舞伎の大看板、七代目市川團十郎のお弟子さんだったそうで、その人の墓が何故秋田の沼館にあるの?ということですが、どうやら江戸時代に團十郎一門といえば泣く子も黙る一座であって、その座内では様々な妬みやら何やらいろいろあったようで、この団之丞さんも耐えきれずに一座を後にした?みたいな記録が残されているようです。やがて放浪の末、この沼館、雄物川町にたどりつき、かつて江戸で教わった「岡本新内節」をこの地に広めたようですね。つまり、地元にとっては歌舞伎の役者よりも、新内節の先生として名が通っているようです。

いまも歌舞伎界に残っている「清元節」「常磐津節」などと並び「富元」とか多くの浄瑠璃が登場しては消えていった江戸歌舞伎界は、とにかく見物衆の拍手に応えるべく様々なアイデアを絞って、お客人を喜ばせ発展していったのです。つまらないものはどんどん上演されなくなり、廃れていったのですね。
さて、この「岡本新内」は明治から大正期にかけて県南部で大流行したそうですが、その後衰退したところを「雄物川町岡本新内伝承会」というものを組織し、いまも伝えられています。You
Tubeにもアップされているのでご覧になっていただければわかると思いますが、地方の盆踊りとは全然違う!明らかに歌舞伎舞踊の流れを汲んでいます。「風俗舞踊」と呼び称されたりしますが、まさにその系統です。こんな立派なものが流行り廃りで秋田県内から消滅してしまうのはもったいない!よくぞ残してくれました、秋田県内の関係者に心よりお礼を申し上げます。




市川團十郎、七代目はその遊興の派手さゆえ江戸を追放されたりもした名優だったそうですが、やることもなかなか巧みで、まず「歌舞伎十八番」を制定しました。これは今でいう「特許」?「勧進帳」を出したかったら家にご挨拶に来なさいな、てことですかね?小田原の薬屋さんに頼まれて「外郎売」という芝居を考案したのは二代目團十郎。これはある意味、CMタレント第一号?市川家所縁の演目「助六」は、江戸の大歓楽街・吉原がスポンサーになってくれたお芝居。こう並べてみると、團十郎は代々アイデアマンだったのかも知れません。

さて、横手と團十郎、こうして並べてみると、その繋がりはあながち冗談でも無くなってくるんじゃないでしょうか?既に上演するお芝居も「歌舞伎十八番の内 暫」が行けそうですね?後三年の役関係ではもう一つ、今も歌舞伎や文楽人形浄瑠璃で上演される名作「奥州安達原(おうしゅうあだちがはら)」というのもあります。これはむしろ前九年の役に関係するのですが、例えば、平泉で「安達原三段目(通称:アダサン)」を團十郎さんが上演し、その後、横手へ移動して「暫」鎌倉権五郎景政を豪快に演じる!夢で終わらせたくないなあ・・・。


ちなみに十二代目團十郎さんは白血病を患って大変な思いをされましたが、妹さんの血を輸血して血液型が変わったそうですが、「私自身は性格は前と変わっておりません、つまり血液型による占いってのは・・・どうなんでしょうか?」と笑っておいでです。大きい方だ!


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